民謡の誕生から現在に至るまでの民謡の歴史や民謡保存と伝承に貢献した人物などを紹介。そもそも民謡は地方の生活唄(または労働唄)と言われます。
民謡が誕生した動機
日本人は農耕民族なので、農業や漁業を仕事として営み、家族を養い、群れを作り、集団化して村へと発展していきます。
そうした背景の中で、労働唄として夢や希望、あるいは絶望・・・恋愛といった人生経験から詩が生まれ、言葉となりメロディーになって、人へ人へ唄い継がれてきました。
そもそも民謡は楽器を使わない唄と言われますが、楽器の代わりとなったのが手拍子でしょう。
手を叩きながら踊り、隣では足を鳴らし、その隣では棒切れで木製の机や椅子を叩きながら民謡を楽しんでいたんでしょうね。
明治になって民謡が注目される
明治時代に入り、西洋音楽の流入とともに民謡も商業化されるようになります。民謡は作者不詳が大部分なので、民謡を流行歌風にアレンジすることに大きな問題もなく、逆に地方の民謡がラジオに乗って流れることで、地方の発展にも繋がるとして歓迎されたようです。
そうした影響もあり、流行歌の作詞家や作曲家が詩を作り、メロディーをつけて著作権のある新民謡も誕生していきます。
大正時代から昭和初期にかけて中山晋平、藤井清水、野口雨情、西條八十らにより新民謡も数多く創作されるようになりました。
時代を超えて故郷の心を運んでくれる唄
筆者が幼いころ明治生まれのお婆さんがよく唄ってくれたのが、五木の子守唄や、稗搗節、おてもやんが今でも心に残っている。
こうした民謡を聞いてもう何十年にもなるのだが、口づざすむと昔を思い出し、故郷を偲ぶ。
民謡継承の不安が広がっている
現在の若者に「民謡」というだけでも顔をそむけられる。果たして若者全員がそうなのかといえばそうでもない。
実際に若者が集まる街「渋谷」において、数年前から伊藤多喜雄という歌手が独自の世界を作り出した民謡コンサートを開き、どの会場でも満席になるほどの賑わいを見せている。
ドラムやエレキ、ベース、ピアノなどの楽器により現代風にアレンジされてはいるが、ある時は熱狂し、ある時は静かに、唄いに酔いしれており、こうした若者たちが民謡嫌いではないということを証明してくれている。
伊藤多喜雄さんの生歌・生演奏で南中ソーラン総踊りの動画
「若者=民謡嫌い」という定義は、民謡を広めきれない民謡関係者の言い訳のようが気がする。
民謡の伝承方法によっては、民謡の未来は明るくなることも事実のようだ。
プロの民謡歌手が誕生
こうして古来から唄い継がれてきた民謡や創作民謡はテレビの普及により、ポピュラー化していきます。その代表的な歌手が三橋美智也や赤坂小梅、現代では金沢明子、細川たかし、福田こうへい、原田直之、長山洋子など民謡出身の歌手もたくさん活躍しています。
日本民謡を広めた第一人者が後藤桃水
民謡の父ともいわれる後藤桃水は、仙台松島湾のほとりに建てられている後藤桃水翁民謡碑は弟子たちの手によって昭和20年11月3日に建立されている。
後藤桃水は中学生の頃(明治25年)尺八に魅了されて、尺八修行を始め、追分お尺八演奏にのめり込んだと言われています。透水は仙台高等学校を卒業して日本大学法学部に進学するも、民謡への思いを捨てきれずに日大を退学。そして下宿先であった神田猿賀町に追分研究会の教室を開講して尺八民謡の保存と伝承にスタートした。
その後も地道な活動を続け、追分民謡の保存と伝承に共鳴する民謡の唄い手(安倍鴨江、越中谷四三郎、三浦為七郎など)が加わり、大正6年に開いた追分発表会では三千人を超える観衆になり、追分ブームが到来することになります。
大正9年10月東京で第1回全国民謡大会を開催して成功を収め、“日本民謡の父”といわれた。12年関東大震災により仙台に戻る。昭和3年NHK仙台開局より民謡放送の番組編成にも尽力。また「八戸小唄」の作曲なども手掛けています。
後藤桃水プロフィール
生年:明治13(1880)年10月25日
没年:昭和35(1960)年8月8日
出生地:宮城県野蒜村
本名:後藤 正三郎
学歴〔年〕:仙台二中卒、日本大学中退